「中小企業のオヤジ」スズキ前会長鈴木修氏との思い出

■社長ブログNo.3 

 弊社本店に入ってすぐ左手の壁に、スズキ前会長(現相談役)の鈴木修さんと写った写真が飾ってあります。日本屈指の大企業のカリスマ経営者として名高い神のような存在ではありますが、このブログでは親しみを込めて「修さん」と呼ばせていただきます。全国にスズキの販売店や代理店がありますが、修さんはそうしたスズキの車を販売したり整備してくれるお店を非常に大事にしており、販売店の会合や整備業者の会合があれば、自ら進んで全国どこでも駆けつけてくださいました。弊社も副代理店としてスズキ車を主として販売していますが、わたしは、スズキの副代理店の会合で4~5回ほど、全国の自動車整備業社で作るロータスクラブの会合で3回、修さんの講演を聴く機会があり、写真は玉造温泉での会合の際、隙をみて撮ってもらった貴重な写真です。

    スズキの代表的な人気車種 左からハスラー、アルトラパン、ジムニー

 軽自動車を次々とヒットさせ、インドやハンガリーなど世界展開を成功に導いた手腕、90歳を超えるまで社長、会長としてスズキを精力的に率いてきた姿はまさに「カリスマ」「レジェンド」ですが、「中小企業のオヤジ」と自ら称し、決して偉ぶらず、誰に対しても気さくに接してくださるので、実際にお会いすると本当に「人たらし」。全国の販売店・代理店にファンがおり、中でも熱心な女性ファンが多く、すぐに周りを人が囲んでいました。

 講演の内容も大変面白く、社長になるまでの苦労話、商品開発の秘話、社長になって以降の海外メーカーとの業務提携と決裂の裏話、経営哲学などなど非常に興味深いお話がたくさん聞けました。「医者と弁護士は良い人に頼め」といった言葉は長年にわたりいくつもの修羅場をくぐり抜けてきた修さんらしい、含蓄に富む言葉だな、と思いました。中でも昭和54年(1979年)の初代アルト誕生までのお話は面白かった。1960年初頭には値段の安い軽自動車が大きく伸びたものの、60年代終盤以降、軽自動車の売れ行きが大きく落ち込んでいた。かつ社会問題化していた排気ガスによる大気汚染に対処するため、1975年に厳しい排ガス規制が施行されたが、スズキは規制をクリアする新型エンジンの開発に失敗してしまい会社は大きく打ちひしがれていた。そんな八方塞がりの1978年に修さんは社長に就任しました。

 就任段階で新型車の開発はかなり進んでいたものの、なぜか修さんにはその車がピンとこず、新車発売を1年延期して再度徹底的に練り直すことにしたそうです。まずは自社の生産工場に出向いたところ、工場の従業員たちは軽トラックで通勤していた。これは奥さんが小売をしていたり、兼業農家が多いためで、工員の給料では軽トラックと乗用車の二台持ちはできないから、使い勝手の良い軽トラックを購入し、通勤にも使っていたそう。しかし、リクライニングのない軽トラックでは昼休憩中に車の中で寝られず、「うちは給料が低いから自社の乗用車が買えない」と言われたそうです(笑)。しかしこれが初代「アルト」の発想の原点となり、乗用車にもなり、後部に荷物を置くスペースを広くとって出荷や配達にも使える「ボンネットバン」になった。そして、アルトの衝撃はやはり「47万円」という破格の安さ。開発時点で「発売価格を全国一律47万円」というのを先に決めていたそうで、これを達成するために色んな装備を削ったり、製造コストを抑えたり、無理難題を要求して、技術と何度も喧嘩しながら作っていったそう。技術側が「どうしてもコストが下がらない」と言ってきたときには「それならエンジンなんか取ってしまえ!」と応えたエピソードも披露してくれました。

初代アルト 出典:(株)スズキ Digital Library

 「初代アルト」の大ヒットで、スズキは勢いを取り戻し、以降は軽自動車メーカーとして快進撃を続け、盤石な地位を築いていくのです。修さんのお話を聞くと、何かを成し遂げるには少しのアイデアと、あとは「絶対にやり遂げる」という信念なのだと何度も気付かされます。「修さんがまだ頑張っているから自分も頑張ろう」そう思わせてくれる、目標とする経営者です。

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